「言葉」は癒しにも凶器にもなる。色んな顔を持っている。
こんにちは。
今日は「言葉」というものを考えてみましょう。
言葉って便利ですよね?
「言葉」を使うと、みなさんにこうしてたくさんの言葉を届けることも出来ます。
人は誰かの「言葉」によって励まされたり、傷つけられたりしています。しかし、そもそもを考えると、言葉とは「意思の疎通を円滑にするツール」に過ぎませんよね?ではその「言葉」について、もう少し深く考えてみようと思います。
人間が使える「言葉」というものはとても大切な役割を持っていると思います。ときには優しく励ましてくれ、ときには厳しく導いてくれる。
しかし、使えるのが当たり前になってしまったこの「言葉」を雑に扱う人もいる。だいたい何でもそうですね。便利なものが開発されると、それを悪用する人も出て来る、という構図です。
誰かから何かを搾取する為に、電話やハガキ、メールなどで「言葉」を雑に扱い詐欺をはたらくもの、パワハラ、モラハラなどの類い、恐喝、恫喝、「その時はどうでもいいような小さな嘘」も、小さな嘘の言葉が積み重なると自分でも制御不可能な「大きな嘘」に姿を変えて行く。。。
言葉を雑に扱う人間は、いつかその自分が発してきた言葉によって何らかの報復が課せられるのではないか、と考えています。言葉には「コトダマ」というものがあるくらいです。常に「これは言葉にしても大丈夫か?すべきじゃないか?」と考えるべき。人間にしか出来ない「想像力」を働かせず、先を読むことなく人に「悪い言葉」をぶつけすぎるとそのうち全部自分に返ってくる。そう思っています。
人間という生き物は、ついつい誰かを「矯正」しようと思い、必死で言葉の限りを尽くしますが、その言葉が響く相手でないと何の意味も持ちません。
自分が必死に説明をしていても、相手は何も聴いていないからです。聴いていない人の頭の中は「こいつ、偉そうにウルサイな」「今日何食べるかな」「あーめんどくせー」くらいにしか思っていません。
そんな「不毛な戦い」って意味ありますか?多分ないですね。
「人を矯正する」ということは多分、出来ないことだと思います。基本的に人は他人を変えることができません。変えることができるのは「他人本人」のみです。「他人」が自分で変わろうとしない限りは、誰にも変えることは出来ません。
他人に良かれと思って「こうしたほうがいい」「ああしたほうがいい」「それはやったほうがいい」と必死にアドバイスしようが、それも他人がやらない限りは何も変わらないのです。あなたがただただ疲弊するだけですね。
ここでポイントになって来るのが「課題の分離」です。
そもそも、あなたが相手を矯正してあげようと首を突っ込んでいる案件は、あなたの人生の課題でなく、他人の人生の課題です。他人の人生の課題に首を突っ込み続け、あなたが疲弊する必要はないのです。
あなたは矯正する気のない他人を必死で矯正させなければ!と思う必要はありません。あなたがアドバイスしたことを自分の頭の中で整理をし、自分の課題を解決させるためにそのアドバイスされた言葉を使うかどうか判断するのは全て「他人」だからです。
ここを混同してしまうと「余計な期待」のせいで、再び自分が疲弊することとなります。
変わらない相手は放置し、取り敢えず自分を変える
相手は自分の思い通りに変わってくれません。
これが大前提です。大人だろうが子供だろうが同じです。
要は、相手が「こうなりたい!」って思って変わろうとしない限り、何も変わりません。
ですので、あなたは伝えたいことだけ伝え、あとは放置するで良いのです。
その横であなたは「相手は変わろうとしないけど、自分は絶対に変わる!」という方に集中し、自分は行動し続ければ良いのです。
あなたは他人の人生を生きているわけではありません。自分の人生を生きています。他人の人生は他人に任せていれば良いのです。他人の人生がより良くなるにしろ、落ちるにしろ、それは他人本人が自ら選び、自らで出した答えや結果に過ぎませんので、あなたが残念に思う必要はありません。
「今」より上がりたいあなたは、今あなたがやるべきことに集中し、必死で生きてみてください。勉強や努力を重ねた回数分、自信もスキルもついてきます。あなたが動くべき日は「今日」のこの「今」の瞬間からです。